美意識に磨きをかける
假屋崎省吾 Syogo Kariyazaki
美輪明宏氏より「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される。神田うの氏、小池栄子氏の結婚披露宴における会場装飾、ブーケを担当。フジコ・ヘミング氏、槙原敬之氏、仲道郁代氏らと花と音楽、桂由美氏、森英恵氏らと花とファッションのコラボレーションやきもののデザインを手掛ける。近年では新たな取り組みとして、福岡県飯塚市「旧伊藤伝右衛門邸」を始めとする花と建造物をコラボレートさせた個展“歴史的建造物に挑む”シリーズを開催。また、2010年10月イタリア・ローマ映画祭でのフラワーインスタレーションを始め、同年12月には、日本人で初めてフランス・プティパレ宮殿での個展を開催するなど、国際的にも目覚ましく活躍中。現在TBS「中居正広の金曜日のスマたちへ」出演中。
今後の活動として、5/27(金)~6/5(日)奈良県国宝 霊山寺「み仏と華の世界」、6/17(金)~7/10(日)軽井沢タリアセン「旧朝吹登水子別荘「睡鳩荘」に挑む」を開催予定。3/29(火)~NTTドコモの「お便りフォトサービス」で作品の抜粋画像を毎週火曜日に有料配信開始。
[假屋崎省吾 花・ブーケ教室]:http://www.kariyazaki.jp/
花に音楽、美術鑑賞、建築、旅行……etc。多趣味なことで知られる假屋崎さんだが、とりわけ散歩が好きだという。
「散歩には多くの発見があります。梅のつぼみが膨らんできたなとか、空気が春めいてきたといったような微妙な季節感を肌身で感じることができる。どこからか、バラの香りが漂ってきて、花は見えなくても咲いていることがわかることも。普段は見過ごしているような些細なことにも気づけるのが散歩の魅力なんです」
散歩中は、お店の店頭に並べられたアイテムやショーウィンドウを観察。イベントや展覧会などのポスターにも目を配り、電車に乗っているときは中吊り広告のチェックも欠かさないという。
「思いがけず知り合いに会い、立ち話をするのも散歩の愉しみですね。偶然の出会いがきっかけとなって、新しいおつきあいが始まることもある。ただ漫然と歩くのではなく、好奇心を持って散歩すると、それがきっかけで世界を広げていくことができるんです」
趣味や旅行に惜しみなくお金を使う両親の影響で、幼い頃から“本物”に触れる機会が多かったという假屋崎さん。長年の積み重ねが揺るぎない美意識を育んできた。しかし、そのアンテナに磨きをかけるのに遅すぎることはないともいう。
「美意識を磨くにはまず、美しいものを貪欲に吸収しようとする姿勢が大事です。美に関心を持ち始めると、これまで何気なくスルーしてしまっていたものにも目を向けるようになる。最初のうちは、小さな気づきにすぎません。でも、やがてそれらが連鎖し始める瞬間が訪れる。美というものを自分なりに捉えることができるようになるんです」
自分をとりまく世界の変化を敏感に捉えながらも、振り回されることなく<美>という軸で捉え直す。そのしなやかな強さは今、最も求められる理想の大人像なのかもしれない。
人生を愉しむ好機を掴む
假屋崎省吾 Syogo Kariyazaki
美輪明宏氏より「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される。神田うの氏、小池栄子氏の結婚披露宴における会場装飾、ブーケを担当。フジコ・ヘミング氏、槙原敬之氏、仲道郁代氏らと花と音楽、桂由美氏、森英恵氏らと花とファッションのコラボレーションやきもののデザインを手掛ける。近年では新たな取り組みとして、福岡県飯塚市「旧伊藤伝右衛門邸」を始めとする花と建造物をコラボレートさせた個展“歴史的建造物に挑む”シリーズを開催。また、2010年10月イタリア・ローマ映画祭でのフラワーインスタレーションを始め、同年12月には、日本人で初めてフランス・プティパレ宮殿での個展を開催するなど、国際的にも目覚ましく活躍中。現在TBS「中居正広の金曜日のスマたちへ」出演中。
今後の活動として、5/27(金)~6/5(日)奈良県国宝 霊山寺「み仏と華の世界」、6/17(金)~7/10(日)軽井沢タリアセン「旧朝吹登水子別荘「睡鳩荘」に挑む」を開催予定。3/29(火)~NTTドコモの「お便りフォトサービス」で作品の抜粋画像を毎週火曜日に有料配信開始。
[假屋崎省吾 花・ブーケ教室]:http://www.kariyazaki.jp/
自分の中にある興味関心を見過ごさず、大切に育てていく。その積み重ねが人生を愉しむチャンスを増やすことにつながるというのが假屋崎さんの持論。では、興味関心の育て方とは――。
「花を育てるのと一緒なんですよ。土をならして種をまく。球根を植え、水をあげる。肥料をまったくあげないと粗末な花しか咲かないけど、水をやりすぎると根腐れする。一時的に夢中になり、あとは放置というのでは長続きしない。焦らず、しかし、先送りもせず、常に気にとめ、目を配り続けることが大切です」
気鋭の華道家として世間にその名が知られ始めた頃、假屋崎さんを思いがけない試練が襲った。喉の渇きや体のだるさなどの異変を感じ、病院を受診したところ、糖尿病と診断される。それも、医師から即入院を言い渡されるほどの重症だった。
「ショックを受けなかったといえば、嘘になります。でも、嘆くよりも『今わかって良かった!』と考えることにしたんです。今ならまだ健康な体に戻れる可能性はゼロではない。そのために自分にできることは何か。糖尿病を進行させないよう、徹底的に食事療法をして、体質改善をしようと気持ちを切り替えたんです」
好きなものを好きなだけ食べ、毎日5000キロカロリーを摂取していた食生活がガラリと一変。1日約1600キロカロリーに抑えた結果、2カ月後には約20キロの減量に成功し、「肌がきれいですね」と褒められるほどに。
「糖尿病の食事療法は塩分やカロリーを控えるために味気ないものになりがちなんです。でも、私の場合はもともと料理好きだったこともあって、なるべく自炊をし、味付けや食材、メニューも工夫していました。おかげでダイエットにもなったし、若返った(笑)。しかも、念願だった料理本を作るきっかけにもなりました。そう考えると、病気だって決して悪いことばかりじゃないでしょう」
絶望的な状況のなかでも、かすかな光を見出す。その眼力を養うことはチャンスを逃さないことはもちろん、自ら好機を作りだす態勢を整える第一歩となる。
人生に絶望せずにすむ特効薬
假屋崎省吾 Syogo Kariyazaki
美輪明宏氏より「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される。神田うの氏、小池栄子氏の結婚披露宴における会場装飾、ブーケを担当。フジコ・ヘミング氏、槙原敬之氏、仲道郁代氏らと花と音楽、桂由美氏、森英恵氏らと花とファッションのコラボレーションやきもののデザインを手掛ける。近年では新たな取り組みとして、福岡県飯塚市「旧伊藤伝右衛門邸」を始めとする花と建造物をコラボレートさせた個展“歴史的建造物に挑む”シリーズを開催。また、2010年10月イタリア・ローマ映画祭でのフラワーインスタレーションを始め、同年12月には、日本人で初めてフランス・プティパレ宮殿での個展を開催するなど、国際的にも目覚ましく活躍中。現在TBS「中居正広の金曜日のスマたちへ」出演中。
今後の活動として、5/27(金)~6/5(日)奈良県国宝 霊山寺「み仏と華の世界」、6/17(金)~7/10(日)軽井沢タリアセン「旧朝吹登水子別荘「睡鳩荘」に挑む」を開催予定。3/29(火)~NTTドコモの「お便りフォトサービス」で作品の抜粋画像を毎週火曜日に有料配信開始。
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假屋崎さんが華道家として独立したのは30代の初めの頃。しかし、幼い頃から華道家を志していたわけではないという。いけばな教室に通い始めたのは24歳、大学2年生のときのことだった。
「もともと、子どもの頃から花を育てるのが好きで、将来は園芸の仕事をしたいと考えていた時期もありました。でも、大学を卒業する時点では自分が花に携わる仕事をするようになるとはまったく考えてもいませんでした」
大学卒業後は、アパレル系の会社に営業職として就職した假屋崎さん。しかし、営業という仕事になじめず、入社3カ月で退職を決意する。
「洋服そのものは好きでしたし、頑張りたいという気持ちと『はたしてこの仕事を一生続けられるのか』という思いとの間で揺れる日々でした。将来、充実しているだろう自分像が見えてこない。そう気づいたことが、辞めるきっかけになりました」
花の稽古を続ける傍ら、朝早くから夜遅くまでアルバイトに精を出し、生活費を稼ぐ。収入は正社員だった頃の3分の1にも満たず、時間も不規則だったが、まったく苦にならなかったと笑う。
「やりたいことをやる! と決めてしまうと、クヨクヨと悩むヒマがなくなるんですよ。失敗は失敗として受け止めるし、時には夢を諦めることも必要。ただ、ひとつの夢を追い求めていると、かなわなかったときに絶望的な気持ちになるかもしれません。興味があることはいくつか育てておくといい。希望を託せる次の夢があれば、人はまた立ちあがり歩き出せるものですから」
興味関心の領域を広げることは己の可能性を広げる。その行動は人生に絶望せずにすむ特効薬にもつながるのだ。
あらゆるマイナスをプラスに転じる
假屋崎省吾 Syogo Kariyazaki
美輪明宏氏より「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される。神田うの氏、小池栄子氏の結婚披露宴における会場装飾、ブーケを担当。フジコ・ヘミング氏、槙原敬之氏、仲道郁代氏らと花と音楽、桂由美氏、森英恵氏らと花とファッションのコラボレーションやきもののデザインを手掛ける。近年では新たな取り組みとして、福岡県飯塚市「旧伊藤伝右衛門邸」を始めとする花と建造物をコラボレートさせた個展“歴史的建造物に挑む”シリーズを開催。また、2010年10月イタリア・ローマ映画祭でのフラワーインスタレーションを始め、同年12月には、日本人で初めてフランス・プティパレ宮殿での個展を開催するなど、国際的にも目覚ましく活躍中。現在TBS「中居正広の金曜日のスマたちへ」出演中。
今後の活動として、5/27(金)~6/5(日)奈良県国宝 霊山寺「み仏と華の世界」、6/17(金)~7/10(日)軽井沢タリアセン「旧朝吹登水子別荘「睡鳩荘」に挑む」を開催予定。3/29(火)~NTTドコモの「お便りフォトサービス」で作品の抜粋画像を毎週火曜日に有料配信開始。
[假屋崎省吾 花・ブーケ教室]:http://www.kariyazaki.jp/
美輪明宏氏より「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される、華道家の假屋崎省吾さん。クリントン前米大統領来日時や、天皇陛下御在位10周年記念式典における花の総合プロデュースなど、国内外のVIPを迎える大舞台をいくつも手掛けてきた。個展に花教室、イベント、トークショー、芸能活動、書籍執筆・・・・etc. 華道という伝統の世界に身を置きながらも、既存の枠にとらわれることなく、新たな世界を開拓し続けている。
「華道家と名乗ってはいるけれど、華道に固執したくないという思いがあります。花と一口にいっても、さまざまな世界があるんです。華道はもちろん、フラワーアレンジメント、プリザーブドフラワー、園芸もあるでしょう。それからもっと視野を広げると、ファッション、インテリア、建築や文学、音楽や食にも花のモチーフは登場する。こういったものを総合的にとらえて、“花”をトータルにプロデュースしたいと考えています」
繊細かつ大胆な作風と卓抜した色彩感覚に定評があり、性別や年齢を超えて支持を集める。しかし、気鋭の華道家として注目されればされるほど、逆風も強くなるのは想像に難しくない。
「少しでも目立つと必ず足を引っ張ろうとする人が出てくるんですよね。妬みやそねみは未だにあります。でも、こうした人間の醜さも、こちら側のとらえかた次第で“肥やし”にできる。『今に見ておれ!』と発奮することで、ひとまわりもふたまわりも大きくなれる。どんなにマイナスな出来事もプラスのエネルギーに変えることができるんです。負けず嫌いなだけかもしれませんけど(笑)」
醜さから目を背けるのではなく、対峙し、乗り越える。その強靭さを身に付けることが、“美”の本質にふれる最初の一歩となる。
結論はやり尽くした後でいい
ルー大柴 Lou Ohshiba
1954年1月14日、東京生まれ。新宿の印刷会社の長男として生まれる。中学の時に映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観て役者を宣言し、高校卒業後はヨーロッパを中心に放浪する。帰国後アクターを目指し、20歳の時に三橋達也の付き人になる。その後、「勝アカデミー」の1期生になり、小堺一機と出会う。俳優をしながらバイトでしのぎ、27歳で結婚。イベント会社に勤める。ラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」などに出演し、34歳の時に海パン一丁の「やけくそ芸」でブレイクする。しかし1993年、1994年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリを果たし、「日本一の嫌われ者」と称される。 2007年にルー語のブームで再ブレイクを果たす。
公式ブログ:http://ameblo.jp/lou-oshiba/
人前で演じることで誰かを笑わせ、感動させたい。その思いに突き動かされるように、仕事に没入してきたというルーさん。その原体験はなんと、幼稚園にまで遡る。お遊戯会での拍手喝采。その快感が忘れられず、「将来は人前で何かを表現して、拍手をもらう人になろう」と決意したというのだ。
「考えてみれば、何も幼稚園で人生を決めなくてもいいですよね。我ながらアーリー過ぎる(笑)。でも、印刷会社の跡継ぎ息子として生まれて、周囲からも家業を継ぐことを期待されていた。自分の意思とは関係のないところで将来を決められることに対してチャイルド心に反発していたのかもしれません。57歳になった今も、あの時もらった拍手の感動は薄れていません」
最近の趣味は、太極拳と茶道。「どちらも金のかからない趣味でしょう」とルーさんは笑う。
「太極拳を始めたきっかけはランニングですね。体力づくりのために走っていたら、公園で年配の人たちが太極拳をしていた。これは身体に良さそうだなと声をかけて交ぜてもらいました。僕がいちばん若いくらいじゃないかな。茶道はマネージャー夫妻に勧められたのがきっかけ。正直、最初は茶道なんて自分には合わないと思っていたんですよ。でも、気づけば準師範。人前で何かを表現することによって感動を与えるという意味では茶道も舞台に通じるものがある。そう気づいてから俄然、面白くなったんです」
自分には合わない。そう感じても、一度は挑戦してみる。結論を出すのは一通りやり尽くした後でも遅くはない。ルーさん言うところの“ストーンの上にもスリーイヤーズ”(石の上にも三年)のスタイルを身につけると、己の可能性はどこまでも広がっていく。
やれば結果がついてくる
ルー大柴 Lou Ohshiba
1954年1月14日、東京生まれ。新宿の印刷会社の長男として生まれる。中学の時に映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観て役者を宣言し、高校卒業後はヨーロッパを中心に放浪する。帰国後アクターを目指し、20歳の時に三橋達也の付き人になる。その後、「勝アカデミー」の1期生になり、小堺一機と出会う。俳優をしながらバイトでしのぎ、27歳で結婚。イベント会社に勤める。ラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」などに出演し、34歳の時に海パン一丁の「やけくそ芸」でブレイクする。しかし1993年、1994年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリを果たし、「日本一の嫌われ者」と称される。 2007年にルー語のブームで再ブレイクを果たす。
公式ブログ:http://ameblo.jp/lou-oshiba/
ブログ開設も、新生・ルー大柴計画の一端だったという。パソコンに触ったことすらないルーさんにとっては、ブログの更新だけでも一苦労。悪戦苦闘する日々が続いた。しかし、このブログが、ルーさんの運命を大きく変える。
「息子や増田、若い構成作家たちにパソコンの打ち方を教えてもらい、四苦八苦しながら更新していました。最初はふつうの日記だったんです。でも、3カ月くらい経った頃、自然と英語と日本後がトゥギャザーし始めてしまった。そんなある日、ブログを見たらコメントが大量についていた。あれには驚きましたね。海パン芸人時代のルー大柴を知らない子たちが『面白いヤツがいるぞ』と見つけてくれたんです」
今までの行動をすべて変える。それはルーさんにとって最後の賭けだった。とはいえ、年齢やキャリアを重ねると、これまでやってきたスタイルを変えるのは至難の業だ。なぜ、ルーさんは変化し続けることができたのだろうか。
「これまでの自分のやり方を否定されることには当然、反発も覚えたし、マネージャーと激しい言い合いになったことも何度となくあります。でも、彼の苦言に気づかされたこともたくさんあった。腹を立てながらも『なるほど』と納得している自分がいたわけです。しかも、やればやった分だけ結果がついてきた。自分でいうのもあれですけど、ずいぶん女性のファンが増えました。海パン一丁で暴れ回っていた昔はファンといえば、マニアックな男たちばかりだったのに(笑)」
厄介なプライドに振り回されることなく、クールに情勢を把握し、真剣勝負を仕掛ける。冷静と情熱の絶妙のバランス。そして、参謀と呼べるパートナーの存在。これらが揃ったとき、世界は確実に広がりを見せる。
成功の中に生じた違和感
ルー大柴 Lou Ohshiba
1954年1月14日、東京生まれ。新宿の印刷会社の長男として生まれる。中学の時に映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観て役者を宣言し、高校卒業後はヨーロッパを中心に放浪する。帰国後アクターを目指し、20歳の時に三橋達也の付き人になる。その後、「勝アカデミー」の1期生になり、小堺一機と出会う。俳優をしながらバイトでしのぎ、27歳で結婚。イベント会社に勤める。ラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」などに出演し、34歳の時に海パン一丁の「やけくそ芸」でブレイクする。しかし1993年、1994年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリを果たし、「日本一の嫌われ者」と称される。 2007年にルー語のブームで再ブレイクを果たす。
公式ブログ:http://ameblo.jp/lou-oshiba/
40代以上ならアデランスのCMで「トゥギャザーしようぜ!!」と叫ぶルーさんの姿をご記憶の方も多いだろう。42歳になる頃にはすべてのテレビ局にレギュラー番組を持ち、スケジュールもびっしり埋まっていたという。「俺もようやくここまで来たか」と感慨深い一方で、自分と“ルー大柴”の間にあるギャップが広がりつつあったという。
「アクの強さやクドさは確かに、僕自身も持っているものだけれど、それがすべてではない。『動』の部分もあれば、『静』もある。でも、一度『動』の部分で受けてしまうと、どうしてもそこを求められてしまう。40代になると、カメラに向かって大声で叫ぶこと自体も結構大変。体力的にもしんどくなってきたし、何よりそう演じることに飽きてきてしまった。でも、期待されているのは、クドいキャラ。自分で蒔いた種ではあるけれど、あれだけコールタールを流して真っ黒にすると、消しゴムで消そうと思っても消せない……と、半ば諦めていました」
43歳になるとレギュラー番組がひとつ減り、ふたつ減り……。舞台に傾倒しながらも、テレビに出たくなくなったわけではなかった。でも、そのためにどうすればいいのかはわからなかった。そして、マネージャーであり、現在の事務所の社長である増田順彦氏との出会いが訪れる。
「増田はこれまでのマネージャーとは全然違っていた。適当にタレントをおだてて、お茶を濁したりしない。生意気なんだけれど、助言がいちいち的を射ているんですよ。『この年から再ブレイクしようと思ったら、ふつうにやっていちゃダメですよ。服装も考え方も全面的に改革しないと!』とかね(笑)」
ルーさんには、持ち前のキャラの強さがある。しかし、年齢を重ねたことで柔らかさも加わった。増田氏がルーさんが持つ「静」の部分を掘り下げ、ルーさんがそこに磨きをかける。こうして新たなルー大柴像が培われていった。
夢を手放すという決意
ルー大柴 Lou Ohshiba
1954年1月14日、東京生まれ。新宿の印刷会社の長男として生まれる。中学の時に映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観て役者を宣言し、高校卒業後はヨーロッパを中心に放浪する。帰国後アクターを目指し、20歳の時に三橋達也の付き人になる。その後、「勝アカデミー」の1期生になり、小堺一機と出会う。俳優をしながらバイトでしのぎ、27歳で結婚。イベント会社に勤める。ラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」などに出演し、34歳の時に海パン一丁の「やけくそ芸」でブレイクする。しかし1993年、1994年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリを果たし、「日本一の嫌われ者」と称される。 2007年にルー語のブームで再ブレイクを果たす。
公式ブログ:http://ameblo.jp/lou-oshiba/
高校卒業後、ルーさんは役者になりたい一心で海外放浪の旅に出かける。旅芸人への憧れや「他人と同じことをやっていてもダメだ」という思いがあったという。そして、帰国後、念願の役者の世界に飛び込む。だが、待っていたのは気が遠くなるほどに長い下積み生活だった。
「風呂なしアパートに住み、アルバイトでかろうじて食いつなぎながら夢を追い続けたけれど、一向に実現する気配もない。明日のない夢を追っているうちに20代が終わってしまった。27歳で結婚して、30歳で長男が生まれるんですが、それでも生活は変わらなかった。オーディションを受けるなど、自分なりにいろいろやってみたものの、全然芽が出ない。バイトの稼ぎをアングラ芝居につぎ込み、家に生活費もいれず……といった生活をしていたため、そのうち女房との間もぎくしゃくしてきてしまった」
そんなある日、ルーさんは母親に「女房、子どもは泣かせるな」と一喝される。「役者だけをやりたいなら、ずっとひとりでいればよかったじゃないか」と。
「これまでずっと応援してくれていたおふくろからの厳しい言葉に、返す言葉もありませんでした。ようやく一家の大黒柱としての自覚が芽生えた。夢から醒めた瞬間だったんでしょうね。俳優の道を諦めて、必死で働き始めた。ティッシュ配りに結婚式の司会、サンプリング……と何でもやりました。でも、不思議なもので夢を追いかけるのをやめたら、途端に向こうからチャンスがやってきたんです」
小堺一機と関根勤の2人がパーソナリティを務めていたラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」への出演がきっかけとなり、34歳でブレイク。
「このチャンスを活かさなくてはならないと必死でした。何はともあれ、インパクト勝負だろうと。全国区で名前を売るために生まれたのが“ルー大柴”という強烈なキャラクター。嫌われたとしても、それでも全国的に知られる存在になれるなら本望だと考えていました」
ルーさんの計算通り、クドくてアクの強い“ルー大柴”の知名度は瞬く間に全国区となる。しかし、そのインパクトの強さは“飽き”につながった。誰より、ルーさん自身が自らつくりあげたルー大柴像に疲弊を覚えるようになっていた。
バイタリティの源泉
ルー大柴 Lou Ohshiba
1954年1月14日、東京生まれ。新宿の印刷会社の長男として生まれる。中学の時に映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観て役者を宣言し、高校卒業後はヨーロッパを中心に放浪する。帰国後アクターを目指し、20歳の時に三橋達也の付き人になる。その後、「勝アカデミー」の1期生になり、小堺一機と出会う。俳優をしながらバイトでしのぎ、27歳で結婚。イベント会社に勤める。ラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」などに出演し、34歳の時に海パン一丁の「やけくそ芸」でブレイクする。しかし1993年、1994年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリを果たし、「日本一の嫌われ者」と称される。 2007年にルー語のブームで再ブレイクを果たす。
公式ブログ:http://ameblo.jp/lou-oshiba/
「チリも積もればマウンテン」「藪からスティック」などカタカナ英語を交えた独特な“ルー語”で知られるルー大柴さん。最初のブレイクを果たしたのは1980年代後半のことだ。くどくてアクの強いキャラクターで、女性誌の「嫌いな男」「抱かれたくない男」ランキング上位を独占した。そして、2007年に再ブレイク。自身のブログがきっかけとなり、若者の間でルー語ブームが巻き起こる。
ちょうどその頃、NHK「みんなのうた」でエコソング「MOTTAINAI」が起用され、大ヒット。昨年9月には画家・樋上公美子との共著でエコ絵本『MOTTAINAIの木の実』を手がける。現在は俳優、タレントとして活動するかたわら、環境をテーマにしたイベントや講演会など、活躍の場を広げている。57歳を迎えてもなお、フィールドを広げ続けるバイタリティ。その原動力とはどのようなものなのか。
「50歳を過ぎた頃、マネージャーが代わったんです。この新しいマネージャーが今の事務所の社長です。彼との出会いがひとつの大きなターニングポイントになっています。当時、彼は18歳近く年上の僕にいきなり『今のルーさんは中途半端なんですよ。これからどうするつもりですか?』と言い放った。腹が立たなかったといえば、嘘になる。でも、同時に彼の言葉に納得している自分もいたんですね」
50代の復活劇の背景には、のちに一緒に独立することになるマネージャー、増田順彦氏の戦略があった。ルーさんにブログを書くように勧めたのも、『MOTTAINAI』をプロデュースし、NHKに持ち込むというのも増田氏のアイディアだった。
「彼は“付き人”というより、ティーチャーのような存在ですね。『パソコンなんて触ったことないし、ブログなんて無理だよ』などと音を上げるたび、『だから、ルーさんはダメなんです!!』と叱られる。半ば強引に新しい自分をディスカバーさせられたようなものですよ」
手厳しい意見に時には反発を覚えながらも、ルーさんは耳を傾け続けた。
説教ジイさんという潤滑油
稲川淳二 Junji Inagawa
1947年、東京都生まれ。桑沢デザイン研究所研究科卒業後、工業デザイナーとして活動。ニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティを経て、「ルックルック」(日本テレビ)やNHK大河ドラマなど、多くの番組に出演。毎夏恒例の全国怪談ツアーは今年で19年目を迎えた。DVD『稲川大百怪 噂の百物語』シリーズ(ポニーキャニオン)、『稲川淳二の超こわい話』(バンダイビジュアル)など作品多数。最近はTwitterで「つぶやき怪談」を展開。怪談ボイスを楽しめる「Inagawa Voice」やAR(拡張現実)でさまざまな霊が写り込む「Inagawa Eyes」などのiPhoneアプリも人気。
公式サイト:http://www.j-inagawa.com
Twitter:http://twitter.com/Junji_Inagawa
稲川さんが怪談を語り始めてから、約35年。1987年に当時はまだ珍しかった“怪談テープ”で32万本の大ヒットを飛ばして以来、オーディオブックにアルバム、DVDとさまざまな怪談作品をリリースしてきた。時代が変われば、怪談も変わる。「怪談は生き物」というのが稲川さんの持論だ。
「この間、凄くショックだったのがね、僕のツアーの取材にきた若い女性記者さんが、“雪女”を知らなかったんですよ。びっくりしたけれど、よく考えてみると、家族や周囲の大人が話をしてくれなければ、起こりうること。大量の情報は飛び交っているけれど、会話が減っていることの一つの表れなのではないでしょうか」
傍若無人な振る舞いをしている人がいても、誰もが見て見ぬフリ。そんな場面に出くわすことも増えたと、稲川さんは嘆く。
「私は言いますよ。この間も新幹線の中でリクライニングシートも倒したまま、食べ終わった駅弁のうつわをゴミ入れに捨てようともせず、降りようとしてた父娘がいてね。『直していきなさいよ』と声をかけても無視を決め込んでいた。周囲も何も言わない。それはいかんだろうと、呼びとめて説教しましたよ。おせっかいジジイだと思われただろうね。でも、これからの日本に必要なのは、そういうジイさんだと思うんです(笑)」
今夏で64歳を迎える稲川さん。「これからは、おせっかいでほら吹き、しかも、でしゃばりと三拍子揃ったジイさんを目指します」と笑う。
「昔はどの町にもひとりくらい、そういうジイさんがいたんですよ。自分の家で食べればいいものを、なぜか夕飯どきになるとやってきて、当たり前のような顔でくつろいでた。そんな図々しいジジイが(笑)、そのうち、なんとなく怪談を語りはじめたりしてね。一見、何の役にも立っていないように見えるんだけれど、じつは町内の人間関係の潤滑油になっている。そういう存在になれたら理想ですね」
脈々と受け継がれてきた“バトン”をしっかり受け取り、次の世代に渡す。それが自分の役目として意識できたとき、それこそが大人としての第一歩を踏み出した瞬間なのかもしれない。

