ザ・トルバドールズ
『ザ・トルバドールズ』
英国から何ヵ月かに一度はかならず登場する“超有望新人”には、ぶっちゃけ“ハズレ”も多いし、できるだけ瞬間風速に惑わされぬよう努めているのだが、このバンドはなかなかいいかも。リヴァプールから登場の4人組、というだけで期待感を抱く人たちも確実にいるはずだが、実際、かのジョン・レッキー(XTCからストーン・ローゼズ、レディオヘッドに至るまでを手がけてきた伝説的プロデューサー)をして「10年に1人の逸材」と言わしめたマーク・フリスの作曲センスには唸らされるものがあるし、メンバー全員がまだ20代前半という単純な事実にすらも、なんだか素直に希望を感じさせられてしまう。
11月には早くも来日が決まっているが、過去にいくつもあった「ライヴを観てみたら高校生レヴェルだった」なんて経験は、このバンドからは味わわされずに済みそうな気がする。
ベン・フォールズ
『ウェイ・トゥ・ノーマル』
3人組なのにベン・フォールズ・ファイヴ。そんなトンチのきいたバンド形態での始動から、まもなく15周年を迎えようとしているオルタナティヴ世代のピアノマン。
ソロ転身後の第3作目となる3年半ぶりのこの作品は、エルトン・ジョンの「ベニーとジェッツ」を連想させずにおかない「ヒロシマ(ビー・ビー・ビー・ベニー・ヒット・ヒズ・ヘッド)」で幕を開けるのだが、なんとこれが「かつて広島公演の際に、ステージ上から、頭から真っ逆さまに転落したときの記憶」を描いたものなのだという。
本作では、そんな事実に象徴されるジョークと本気のせめぎあいを随所で楽しむことができるが、その絶妙なバランスは同時に、この稀有なメロディ・メーカーの王道的な魅力と、あくまで邪道であることを美学とするかのようなヒネクレ加減の関係をも象徴しているように思える。
素敵だ。
ジャクソン・ブラウン
『時の征者』
代表曲のひとつである「孤独なランナー」を、自身がまったく支持していない共和党のマケイン陣営に無許可でTV-CFに使用されたとして、同氏を告訴。そんなニュースも記憶に新しい“西海岸の象徴”も、実にこの10月9日で60歳になるのだという。
しかし通算13作目のオリジナル・アルバムにあたるこの6年ぶりの新作に封じ込められている“誠実さ”をそのまま音声に変換したかのような歌声の響きは、70年代当時そのままというか、むしろあの頃よりも艶やかで、伸びやかで、当然ながら深みも増している。
楽曲も粒揃いだし、素材の味をシンプルに伝えてくれる作風も心地好い。
マーク・ゴールデンバーグをはじめ、愛好家たちにはおなじみのメンバーたちに囲まれながら完成されたこの作品を引っさげ、11月には4年ぶりの来日公演も行なわれる。
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キッド・ロック
『ロックン・ロール・ジーザス』
累計アルバム・セールス2,200万枚。米本国での実績がすごすぎて、そのステイタスの高さが日本ではあまりよく理解されていないこの男。
昨年発表されて全米チャートで初登場首位を獲得しているこの作品の日本盤が今頃になってようやく出るという事実もそれを物語っている。
『ウッドストック99』でのライヴ・パフォーマンスに瞬殺されて以来、いつかコイツを日本でまた観たいと願っている筆者としては、そんな現実は歯痒くもあるし、なんだかセレブくささが強くなりすぎた感のある近年の彼自身のたたずまいにも“なんだかなあ”という思いがあるのだが、こうして改めて聴いてみると、やはり作品は理屈抜きにカッコいい。
サザン・ロックもヒップホップもメタルもブルーズも、同じような温度で好きなこの男だからこその、ルール違反満載の痛快きわまりないロックがここにある。
クレイジーケンバンド
『ZERO』
毎年コンスタントに作品を発表し続けているクレイジーケンバンドのアルバムも、これで通算10作目。シンプルに銘打たれた表題が示しているのは、このバンドを成立させている『CKB-音楽=ゼロ』という公式なのだという。
そして実際、過剰なほどに音楽密度の濃い1枚に仕上がっている。
異ジャンルを合体/融合させながら新機軸のものを生み出そうとするのではなく、あらかじめジャンルという概念を持っていないことを、無言で、熱く、しかも冗談交じりに伝えてくれるのだ。
“エッジな人たち”には必聴と言うしかない「デトロイト音頭」や「中古車」をはじめ、独特の視点とユーモアにはニヤリとさせられるが、同時に、それと背中合わせの関係にある哀愁味に、腰まわりの贅肉にほろ苦い記憶が詰まった世代ならではの色気を感じずにいられない。
中毒患者的支持者が多いのも頷ける。
ザ・ダットサンズ
『ヘッド・スタンツ』
ニュージーランドの4人組。デビュー当時から比較されてきたのはAC/DCやブラック・サバス、レッド・ツェッペリンなど。
当初、メンバー全員がダットサン姓を名乗っていた事実や「アルバムは40分以下であるべき」といった潔い美学はラモーンズにも通ずるし、
「チープ・トリックがディープ・パープルの曲を演奏したらこんな感じかも」
なんてことを思わせる楽曲にも出くわすことがある。
要するに、懐かしいようでいて新しく、誰かに似ているようでいて誰にも似ていないということ。
ドラマーのチェンジとレーベル移籍を経て完成されたこの第4作では、このバンドならではの歯切れのいいロックンロールが“成熟しながら爆裂している”といった印象。
まさに乾ききった大地を爆走するロックンロール・マシーン。
ちなみにブレーキは壊れているわけではなく、最初からついていない。
クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング
『デジャ・ヴ・ライヴ』
ニール・ヤングの『リヴィング・ウィズ・ウォー』はブッシュ政権やさまざまな“現代の戦争”への批判精神を背骨とする作品だった。彼の活動は“点”のまま終わることはなく、デヴィッド・クロスビー、スティーヴン・スティルス、グレアム・ナッシュとの再合体によるツアーというカタチで“線”を描いていった。
2006年に行なわれたこのツアーは『FREEDOM OF SPEECH』と銘打たれて北米35箇所で展開され、その一部始終はフィルムに収められていた。
そして生まれたのが、2008年1月に開催されたサンダンス映画祭のフィナーレを飾る作品として公開された『CSNY/DEJA VU』で、本作はそのサウンドトラックということになる。時代が彼らを呼び戻したと言えば、聞こえはいい。
が、本来は、ふたたび彼らが何かを訴えなければならない時代になってしまったと解釈すべきなのだろう。
フラワー・トラヴェリン・バンド
『We Are Here』
1970年に始動し、1973年には活動停止。そんな時代に米大手のアトランティックと契約し、カナダのトロントを拠点に活動しながら同国チャートのトップ10にシングルを送り込んでいたという、信じ難い歴史を持つ“日本のバンド”がいる。
それがフラワー・トラヴェリン・バンドだ。
そしてメンバー全員が還暦を過ぎた2008年、ついにこの伝説的バンドが再始動を果たし、この夏にはフジ・ロックにも出演。さらにはこうして新作を完成させ、ツアーまで行なうことになった。
音に関しては、僕のような若輩者があれこれ解析するまでもなく、とにかく凄い。
懐古趣味などとは無縁で、純粋に新しくてイビツで刺激的な音楽として、過剰なほどの説得力を持ちながら成立している。
10月5日、Johnny,Louis & Charをスペシャル・ゲストに従えての日比谷野音公演が楽しみだ。
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バックチェリー
『ブラック・バタフライ』
前世紀末にデビュー。“I love the cocaine”という過激なフレーズを繰り返すシングル曲、「リット・アップ」が話題となり、AC/DCとエアロスミスの正統的後継者として、ガンズ・アンド・ローゼズ不在の時代に毒々しい華を咲かせたアメリカの5人組。以降、活動休止状態にまで追い込まれた時代もあったが、2005年に発表された第3作『フィフティーン』が時間をかけながら全世界で150万枚超のセールスを記録するヒット作に。
良い意味でその余波に乗りながら登場を迎えたのがこの第4作ということになる。
前作でも作曲面に関与していたマーティ・フレデリクセン(エアロスミスやデフ・レパード等との共作でも知られる)が今回は共同プロデューサーに起用され、従来以上に楽曲水準の高い、しかもヴァラエティに富んだ作品に仕上げられている。王道的にして攻撃的。
そんな1枚だ。
メタリカ
『デス・マグネティック』
神でも怪物でもないメタリカが、最新作で実践した無謀な“賭け” 約5年ぶりのニュー・アルバムで、本当に彼らは“1985年の自分たち”に戻ったのか?強靭な筋肉の鎧を身にまとった運動選手が、実は“ガラスの心臓”の持ち主だったりするのを知ったときに味わうのは、落胆よりもむしろ「ああ、あの人も同じ人間なんだ」という共感だったりする。メタリカを主人公とするドキュメンタリー映画、『メタリカ:真実の瞬間』を観たときにも僕は同じような感覚を抱いたものだ。
この作品は、基本的には彼らが2003年に発表したアルバム、『セイント・アンガー』の制作過程を追ったものだが、カメラが回りっぱなしの状況のなかでメンバーの交代劇をはじめとする幾つもの危機に襲われた“メタルの王者”は、数々の無防備な醜態をさらしている。長年の飲酒癖に起因するアルコール中毒。バンド内に持ち込まれる家庭内不和。メンバー同士が罵倒し合うシーンもあるし、セラピストに心情吐露したかと思えば、同じ相手に対して逆ギレするといった場面も収められている。
実のところ、僕自身はメタリカを神のように崇めてきたわけでもないし、過去、彼らの未成熟な部分や矛盾する言動などには、何度も取材などの機会に出くわしてきた。彼らを“完璧な人間”だと思ったことなど一度もない。が、それでも僕が衝撃をおぼえたのは、メタリカがパブリック・イメージを台無しにすることを恐れずにこの映画の公開に踏み切ったからだ。もちろんそれが可能だったのは、アルバム自体に自信があったからこそでもあるはずだが。
その『セイント・アンガー』から5年と3ヵ月。メタリカの新作が完成に至った。題して『デス・マグネティック』。プロデューサーには、怪物バンドと化してからのこのバンドにずっと携わり続けてきたボブ・ロックではなく、リック・ルービンが起用されている。
完璧な音作りよりも、“バンドに本質を取り戻させること”を得意技とする放任主義のルービンが今回バンド側に提示した命題は、“1985年への回帰”。すでに40代後半になりつつあるメタリカに、まだ30代になることにすら現実味を感じていなかった時代に戻ることを命じたわけである。
もちろんそれは、簡単なことではない。無邪気であろうとしても成熟が邪魔をするし、単純に過去の自分たちをなぞるようなことをすれば、セルフ・パロディの罠に陥ることになる。「考えるよりも、まず行動を!」という言葉の意味はわかっていても実践することが難しいのと同じで、「あの頃のモチヴェーションを取り戻せ!」みたいな注文には、大概の場合、無理がある。
が、もしも『デス・マグネティック』での彼らに、本当にルービンの注文に応えることができていたとしたら、それはタイムマシーンを発明することと同じくらいの快挙と言えるんじゃないだろうか。
実はこの原稿を書いている時点で、まだ筆者にはこの作品の全貌が把握できていない。特設サイトで新曲の断片やらレコーディング現場の映像やらが先行公開されているにもかかわらず、肝心の完成音源は解禁に至っていないからだ。しかし、正直、こんなにもメタリカの新作との対峙を待ち遠しく感じることは、久しくなかったように思う。それはもしかしたら、単純に“音”をいち早く聴きたいだけではなく、神でも怪物でもない、弱みもたくさん持ったメタリカが何かを証明してくれることを期待しているからなのかもしれない。一時は“人間以下”と言ってもいいような状態にあったメタリカに、本当に“あの頃”に戻ることができているのなら、それは同時に、僕らにもそれが可能だということの証しでもあるのだから。
スラッシュ・メタルの代表的存在として基盤を築いたのち、『メタリカ』(通称ブラック・アルバム)が2,000万枚を超えるセールスを記録し、ヘヴィ・メタルの枠を超越した存在としての地位を確立









